VRお墓参り

サービス概要

お墓が遠い、時間がない、高齢で行くのが大変・・・などさまざまな理由でお墓に足を運びにくい方のために、VRお墓参りサービスをご提案します。

サービスの内容は、お墓の清掃を行なって、その後で360度カメラを用いてお墓の様子を撮影し、PCやスマートフォンからお墓参りをすることができるというものです。

画像は6K(映像の場合は4K)、全方位の音声を収録しています。スマートフォンとVRゴーグル、ワイヤレスイヤホンを使用することで没入感・臨場感のあるコンテンツを体感することができます。映像の場合は通信環境によってコンテンツの読み込みが遅くなる場合があります。あまり動きがない場合は画像+音声がおすすめです。
VRゴーグルを使ってコンテンツを視聴する場合はこちらをご覧ください。

作成したコンテンツへは、専用のURLからアクセスすることが可能です。ログインID・パスワードの必要なページを別途作成することもできます。

以下の事例では、過去の偉人のお墓を撮影してコンテンツにしております。
日本ムスリム協会の初代会長・サディーク今泉義雄氏は、亡くなられる前日にコーランの第1章を朗誦してもらったそうです。このことにちなんで、コンテンツ上のコーランのマークを押すとその第1章が流れるようにしております。

また、故人の写真や音声、動画など、空間内に自由に配置することも可能です。

費用

8,000円+交通費(清掃代行、撮影、コンテンツ作成、保守費)
※年間契約(1年に4回清掃・撮影)の場合は30,000円です。
交通費は渋谷駅を起点として算出します。

コンテンツ事例

1905(明治38)年9月16日ー1960(昭和35)年5月17日(享年64歳)
 本名は今泉義雄。アブドッラシード・イブラーヒームに師事。1953.4.28(S28)日本ムスリム協会を発足し会長に就いた。 設立メンバーは63名。会長に就いた今泉は活発かつ献身的な活動を展開した。
 ’60病に倒れ、5月16日夜8時頃、協会の副会長を務めていた斎藤積平が見舞いに訪れた際に、かすかな声で「コーランの第一章ファーティハを唱えてくれ」と頼んだという。 斉藤が今泉の耳元でこれを唱え終わると、満足した様子で別れを告げた。これが最期の言葉となった。翌17日午前2時、今泉の霊魂はアッラーのもとへと召されていった。享年64歳。     
 その後、協会では現在に至るまで、イスラーム学の研修のためにエジプトのアズハル大学など、アラブ諸国を中心に多くの留学生を派遣し、布教活動を行っている。

1891(明治24)年6月23日-1929(昭和4)年12月20日(享年39歳)
 明治-昭和時代前期の洋画家。
 岸田吟香の4男。黒田清輝(せいき)らの白馬会研究所にまなぶ。雑誌「白樺」の同人とまじわって後期印象派を知り,大正元年高村光太郎らとヒュウザン会をおこす。木村荘八らと草土社を結成、静物画や風景画に独特の細密表現を完成した。代表作に娘麗子をモデルにした「麗子五歳之像」にはじまるシリーズがある。東京出身。
(デジタル版 日本人名大辞典+Plus )

1827(文政10)年1月27日-1898(明治31)年11月12日(享年72歳)
江戸後期-明治時代の漂流民、教育者。
15歳のとき、土佐(高知県)宇佐港から出漁して遭難。アメリカの捕鯨船にすくわれ,同国でジョン=マンの名で教育をうける。嘉永4年帰国、6年幕臣となり、万延元年通訳として咸臨丸で再渡米。維新後は開成学校の英語教授。著作に「漂客語録」「英米対話捷径」。
(デジタル版 日本人名大辞典+Plus )

1909(明治42)年5月5日~1942(昭和17)年12月4日(享年33歳)
日本の作家。東京で漢文教師の子として生まれる。1933年東京帝国大学国文学科を卒業後、高等女学校の国語・英語教師となる。18歳頃から患っていた喘息のため、1941年に退職し、療養を兼ねてパラオ南洋庁に書記として赴任した。1942年『光と風と夢』で芥川賞候補となるが、その数ヵ月後に喘息を悪化させ33歳で夭折した。
中国古典を題材にした漢文調の格調高い文章の作品を残している。作品の多くは死後に発表された。代表作は他に『古譚』『李陵』『山月記』『名人伝』など。
人名辞典

1850年6月27日-1904(明治37)年9月26日(享年55歳) 
 明治時代の随筆家,英文学者。
 ギリシャ生まれ。明治23年(1890)来日、松江中学の英語教師となる。小泉節子と結婚、29年イギリス国籍から日本国籍になる。当時の日本を「知られざる日本の面影」などで世界に紹介。五高,東京帝大や東京専門学校(現早大)でおしえ、上田敏、厨川白村らをそだてた。
 旧名はラフカディオ=ハーン(Lafcadio Hearn)。著作に「怪談」「詩論」など。
(デジタル版 日本人名大辞典+Plus )

1867(慶応3)年1月5日ー1916(大正5)年12月9日(享年49歳)
 日本の作家。本名、夏目金之助。
 江戸に生まれる。2歳で塩原家に養子に出されるが、養父母の不和から9歳で生家に戻っている。10歳で再び養子に出され、その後21歳で夏目姓に戻った。
 東京大学予備門予科に入学、正岡子規らと親交を結んだ。卒業後、東京高等師範学校で教鞭をとる。  
 1895年に愛媛県尋常中学校(松山中学)に赴任、翌年には第五高等学校(現:熊本大学)に転任した。1900年から3年間、文部省留学生としてロンドンに留学、英文学研究に携わった。帰国後は、東京帝国大学文科で英文学を指導した。
 1905年『我輩は猫である』を発表、さらに『坊ちゃん』『草枕』などの小説を発表し、好評を得る。1907年文筆に専念するため、帝国大学を辞職、朝日新聞社に入社。新聞小説『虞美人草』で人気を得、初期3部作といわれる『三四郎』『それから』『門』を書いた。その後も『彼岸過迄』『こゝろ』『道草』などの優れた作品を残した。
 1916年『明暗』執筆中に持病の胃潰瘍を悪化させ死去。「漱石」の号は故事「漱石枕流」に由来する。
人名辞典

1911(明治44)年2月26日ー1996(平成8)年1月7日(享年84歳)
 日本の芸術家。漫画家の岡本一平と作家の岡本かの子の子として川崎に生まれる。慶応幼稚舎、普通部をへて東京美術学校洋画科(現:東京藝術大学)に入学するが半年で中退。1929年父のロンドン軍縮会議取材に伴い、ヨーロッパに渡る。1930年よりパリに住む。パリでピカソの作品に影響を受け、前衛芸術運動に参加。ネオ・コンクレティスムを提唱するとともに超現実主義に接近した。
 第2次大戦が勃発し、1940年パリが陥落すると、日本に帰国。中国戦線に2等兵として従軍した。
 終戦後、「夜の会」を結成、前衛芸術運動を開始した。縄文や沖縄の芸術に注目し、日本の前衛芸術の第一人者となる。
 代表作は「太陽の塔」(大阪万博のシンボル)など。著作も多い。 また、「グラスの底に顔があったっていいじゃないか」「芸術は爆発だ!!」などの名言も残している。
人名辞典